顕彰のことば   

 正二位勲一等男爵大鳥圭介先生、諱は純彰 赤穂郡岩木の人 天保3年
(1832)2月28日父直輔母節子の長子として生れる。幼にして頴悟稍長じて岡山
藩閑谷黌に漢学を修める。嘉永5年(1852)家業の医をもって立つべく、大阪の
緒方洪庵に蘭学を学ぶ。同門に福沢諭吉らの俊英多く学大いに進む。時あたか
も黒船の来航を聞く。時局の急迫を明察し江戸に上る。近代兵学も究めて江川
坦庵に武を講じかたわら英学を修める。令名すでにあまねく徳川幕府に迎えられ
て歩兵奉行となる。
 慶応4年(1868)大政は奉還されたが、幕府和戦の両論に分れ、江戸は騒然
遂に立って榎本武揚らと北海に奔り旧恩に殉ずる。函館五稜郭に戦敗れて共に
帰順、詩を賦して自ら省みる。
  閲来世運幾遷更 今日零丁何足驚
  誰正誰邪不強辯 丹心千載任人評
 明治5年(1872)特に赦されて大蔵少丞を拝命して英米に使する。帰って後は
再び兵を語らず、ひたすら興業に尽くし育英のことにあって励む。すなわち元老院
議官、内国博覧会御用掛、工部大学校長、学習院長などを歴任して斯界に重き
をなす。
明治22年(1889)清国特命全権公使に兼ねて朝鮮国駐剳公使に任ぜられ、風雲
ようやく告げる隣邦にあること5年有余、果断明快よく使命を全うする。
  
   にしひがし国こそかわれかはらぬは
     人の心の誠なりけり

 明治27年(1894)帰朝、枢密顧問官に任ぜられ国政の枢機に参両、出でては
侃諤の論をなし入りては国府津の風光を友とする。晩年は悠々自適して明治44年
(1911)6月15日波瀾の多い栄光の生涯を終る。時に齢79。
 大鳥先生は天禀の才を実学によって磨き、徳をもって師長となる。憂国の志篤く
栄達を求めず至誠よく世を導く、その高風清節は人々のひとしく欽仰するところ、
先生を敬慕する郷土の至情は町民をあげての顕彰会となり、明治100年を記念し
て銅像を建立する。千種川のほとり故山を望むその英姿は崇くその遺徳は永遠に
輝くを信ずる。
   昭和45年11月3日                    大鳥圭介先生顕彰会
顕彰のことば
 松井利男撰 西本広書
明治100年を記念して
銅像を建立
昭和45年11月3日
大鳥圭介先生顕彰会
デジカメでは写り難いので辞書
を頼りに必死で模写しました。
顕彰を辞書で引くと「取り上げて多くの人に知らせ(てほめ)ること、(かくれている
   よいことが)明らかに表われること。表わすこと。功績を顕彰する。」と、ある。