相模灘を望む国府津の瀧廼家
右記の執筆から私が描いた想像図(2006.3.24)
お見舞いに「瀧廼家」へ
(圭介亡くなる一ヶ月前)

 右記にはないのですが李鴻章から頂いたといわれる梅ノ
花も咲かせてみました。圭介の生家上郡に梅ノ木があった
(現在相生(あいおい)在住の大鳥一郎夫人100歳?曰く)
圭介はその梅ノ木を滝廼家に運んだのでしょうか。  現在
生家の庭には見当たらない。圭介は梅、松、瀧をこよなく
愛したのではないでしょうか。如楓の額に見ることが出来ます。
 もしかして部屋に掲げられていた李鴻章の筆による大扁
額というのは、神戸新聞2003.6.1の記事「大鳥圭介あて
李鴻章からの書簡発見」かもしれませんね。
 翁の病を聞き一度その風采に接したい念願も手伝い甥貝二郎氏に伴われて國府津の別荘を見舞ったのは明治44年5月であった。
 心をこめた山芋と水あめを提げて「瀧廼家」の表札を掲げた丸木門を入ると稲傾斜になった広い広い密柑畑があり、その道を小登りに何十間か進んで和風の瓦葺二階造りがそれである。東南4,5町に相模灘を望み、後ろに小山を背負うて大きな赤松の森から高さ23間の瀧が落ちている。どこから水をひいてあるのか人口によるものらしい。二人は部屋に通されてから一両日前帰朝したばかりの浦塩総領事大鳥富士太郎氏(後メキシコ公使等を経て昭和6年病死)夫妻にも挨拶を交わししばらくの後翁の病室に通された。
 病室は前記密柑畑を見下ろし南を受けた十数畳敷もあろうと思われる眺望のよい二階であった。清国公使時代の記念物と思われる李鴻章の筆になる大扁額の懸っていたのもこの部屋であったと記憶する。
 当時翁は流動物の少量しか もはやのどに通らぬ重患者でありながら我々が部屋に入った時には玲子婦人(後妻)の介添えで寝床の上に端座し待っておられた。二人が簡単な挨拶を済ますと徐に遠来の労を謝し親族の事や郷里の事、さては編者の家の後ろの山に今も尚マツタケが生えるか峰太郎氏は顕在か尋ねられ(余は峰太郎なる人を知らず、年並びや、宅のすぐ下の家の人だと聞いて、さては本家柳七郎老の事と悟り帰ってから聞くと果たして同老人の幼名が峰太郎であったので翁の暗記に感心させられた。)
 時々苦しさがこみ上げて来るらしいので部屋に下がり富士太郎氏の案内で庭園や瀧の辺りを初夏の陽光を浴びて漫歩、その夜は引留められるままに泊まった夕食に桜鯛の吸い物が付いていた事など未だ覚えている。
 翌朝再度病室へ通され昨日の如く暫時應答し是を最後の名残り惜しんで辞去し国府津駅まで富士太郎氏に見送られて帰路についたのであった。
    「大鳥圭介略伝」より抜粋  著者 親戚の武地誠一